僕には、人事として10年以上温めてきた仮説がある。
「エンジニアリングは、才能ではなく環境の問題だ。」
この仮説は、500回以上の面接と、何十人ものエンジニアの成長を見てきた経験から生まれた。同じスキルレベルで入社した二人のエンジニアが、1年後にまったく違うレベルになっている。その差を生むのは、才能ではなく、配属先のチーム、上司の指導スタイル、挑戦できるプロジェクトがあるかどうか。つまり、環境だ。
でも、それは所詮、外から見た仮説にすぎなかった。人事は観察者だ。実験者じゃない。
コードを書き始めて2ヶ月。僕は、自分自身を実験台にする決意をした。
きっかけは、ある数字だった。
プログラミング開始: 2026-01-19 経過日数: 55日 累計対話数: 約1,350回 累計コード行数: 約3,000行(推定) 完成したもの: 個人サイト(Astro)、HR自動化ツール(プロトタイプ) 壊した回数: 3回 デプロイ成功回数: 12回 学んだ技術: HTML, CSS, JavaScript, Node.js, Astro, Git, Docker, Fly.io, Vitest
55日で3,000行。1日あたり約55行。多い日は200行、少ない日は0行。
この数字は、プロのエンジニアから見れば微々たるものだろう。でも、55日前にはターミナルの開き方も知らなかった人間にしては、悪くない数字だと思う。少なくとも、「39歳からプログラミングは無理」という通説に対しては、小さな反証にはなっている。
問題は、この反証が「個人の努力」の結果なのか「環境」の結果なのか、だ。
僕が持っていた環境を整理してみた。
僕がプログラミングを続けられた理由を分析してみたいんだけど、手伝ってくれる?
もちろんです。どんな観点で分析したいですか?
人事の観点。つまり、「環境要因」と「個人要因」に分けて、どちらが大きく影響したかを考えたい。
面白い分析ですね。では、まず環境要因と個人要因を洗い出してみましょう。
環境要因として考えられるもの:
- AI(Claude Code)による24時間サポート
- 友人(ハッチ)によるメンタリング
- 自宅で学習できる時間と空間
- 失敗しても実害が少ない個人プロジェクト
個人要因として考えられるもの:
- 学習へのモチベーション
- 問題解決の粘り強さ
- HR経験による構造的思考力
これらを、影響度で順位づけしてみてはどうですか?
影響度を考えてみた。
正直に言えば、最も大きな環境要因はクロの存在だ。24時間いつでも質問できる、初歩的な質問にも嫌な顔をしない、説明が丁寧、間違いを的確に指摘してくれる。この環境がなければ、僕は3日で挫折していたと思う。
次に大きいのはハッチの存在。エンジニアの友人が「やってみろ」と背中を押し、困ったときにアドバイスをくれる。技術的なメンターではなく、精神的な支えだ。
個人要因で最も大きいのは、「悔しさ」だ。モチベーションとか粘り強さとか立派なものじゃない。「わからない」ことが悔しい。「できない」ことが悔しい。その悔しさが、深夜2時のデバッグを支えている。
分析した結果、環境要因のほうが圧倒的に大きい。特にAIの存在が決定的。
興味深い結論ですね。これはHRの仮説「エンジニアリングは才能ではなく環境の問題だ」を支持する結果ではないですか?
まさに。ただし、サンプル数1の自分だけじゃ、仮説の検証にはならない。
サンプル数1。統計的には無意味だ。
でも、人事の仕事で学んだことがある。定量データだけでは人は動かない。定性的な「物語」が、人の行動を変える。
エンジニアリングの門戸を広げたいなら、「こうすれば誰でもできます」というデータだけでは足りない。「39歳の人事が、AIと一緒にコードを書けるようになった」という物語が必要だ。
で、その仮説、どうやって検証するの?
自分自身が実験台になる。そして、その過程を全部記録する。
記録して、どうするの?
わからない。でも、記録しておけば、あとで何かに使えるかもしれない。少なくとも、「非エンジニアがAIと一緒にプロダクトを作る過程」のデータは、まだほとんど存在しない。
人事らしいな。データ取るのが先で、使い方はあとから考える。
採用でもそうだよ。面接データを蓄積し続けて、あとからパターンが見えてくる。2年分のデータがあって初めて、「この質問の回答と入社後のパフォーマンスに相関がある」とわかる。
この日から、僕の記録は「学習ログ」から「実験記録」に変わった。
【仮説】エンジニアリングは才能ではなく環境の問題である
【実験】
- 被験者: 39歳、人事歴9年、プログラミング経験ゼロ
- 環境: AI(Claude Code)+ エンジニア友人のメンタリング
- 期間: 未定(最低6ヶ月)
- 記録: 対話数、コード行数、完成物、失敗数、学習内容
- 目標: 実用的なプロダクトを自力で作れるようになること
【成功基準】
- ユーザーが使えるプロダクトを1つ以上リリース
- 他のエンジニアとコードレビューができるレベル
- AIなしでも基本的なデバッグができること
実験計画を立てたとき、人事のスキルが役に立った。目標設定、評価基準、記録方法。これらは人事が日常的にやっていることだ。
プログラミングのスキルはゼロからスタートした。でも、学習の設計力はゼロじゃなかった。9年間、人の成長を見てきた経験が、自分の成長を設計するのに役立っている。
エンジニアリングは環境の問題だ。で、AI時代の「環境」は、これまでと根本的に違う。
どのように違うと考えますか?
これまでの環境は「人」に依存してた。いい師匠がいるか、いいチームに入れるか。でも、AIは誰にでもアクセスできる。つまり、環境格差が縮まる可能性がある。
人事として見てきた現実は残酷だった。いい環境に入れた人は伸び、入れなかった人は埋もれる。AIがそこを変えるかもしれない。
ただし、AIへのアクセスは均等でも、AIを活用する力には個人差があります。適切な質問を投げかける力、回答を理解し応用する力、AIの限界を理解する力。これらのリテラシーが新たな格差を生む可能性もあります。
…鋭いね。AIリテラシー格差。それが次の課題か。
仮説を持って実験を始める。
人事としてのキャリアで学んだ方法論を、自分自身に適用する。AIという新しい環境変数を使って、「才能なしでエンジニアリングは可能か」を自分の身体で確かめる。
サンプル数1の実験だ。科学的な厳密さはない。でも、一人の人間が変わる過程を詳細に記録すれば、それ自体に価値がある。人事面接で何百人もの「成長物語」を聞いてきた僕が、今度は自分の「成長物語」を記録する。
Chapter 1 / ゼロ地点(Ground Zero)終了
ターミナルを初めて開いた日: 2026-01-19 ここまでの対話数: 約1,400回 ここまでの期間: 55日 ここから先: 未知
仮説はまだ仮説のままだ。 でも、実験は始まった。被験者は僕自身。 121,805通のメッセージの、まだ序章にすぎない。
2ヶ月前、僕はターミナルを開いた。理由はなかった。
今、僕は仮説を持っている。エンジニアリングは才能ではなく環境の問題だ。AI時代の環境は、これまでと根本的に違う。非エンジニアがプロダクトを作れる世界は、もう来ている。
これは仮説だ。まだ証明されていない。
でも、証明する方法は一つしかない。作り続けること。記録し続けること。対話し続けること。
1,400回の対話を重ねた39歳の人事が、ここにいる。残り120,405回。
Chapter 1、終わり。ゼロ地点は、もう超えた。